2011年2月24日木曜日

卒論発表終了

昨日平成22年度の卒論発表が終了。今年のメンバーは5名で、自宅に引きこもるのはいるは、「朝10時までに来い」といっても、来るのは1,2名とかでいろいろでしたが、10月の投票実験とその解析で4名、残り1名は昨年の競馬予想の続きで、今年の発表のラインアップを組むことができました。

1:熊谷「美人投票と情報カスケード」

2:石澤「投票実験と情報カスケード」

3:辻「情報カスケードと相転移」

4:神田「投票モデルの統計物理」

5:入江「競馬予想と集団知」(本当は「最強の競馬予想」だったが、他の先生からのクレームでタイトルが変更。)

以上が、今年の発表のタイトル。プレゼンは、一番の熊谷君のが一番うまかったか、という印象です。他の方々も、まあまあだったと思います。ご苦労様でした。新しい環境で活躍されることを期待します。

2011年2月10日木曜日

つながり



誰がホモ・エコノミクスを殺したのか?そもそもホモ・エコノミクスは存在したのか?著者の答えは、非工業化社会の原住民に非常に合理的に行動する人々がいるというもの。アマゾン川流域のマチゲンガ族、タンザニアのハザ族、エクアドルのケチュア族など。それらに共通するのが社会性の欠如。部外者と遭遇しない、市場での取引を行わない部族ほど経済学者が考える「人間は私利私欲に基づく種であり、最小限のコストで最大限の個人的利益を得ようとする」ホモ・エコノミクスに近い行動をする。

一方、人類はこのホモ・エコノミクスの状態から進化し、ホモ・ディクティアヌスになったと著者達は考える。ラテン語のdicty=「網・ネット」とhomo=「人間」からの造語で、「人間の動機を純粋な利己主義から切り離」し、「私たちは他人とつながっているゆえに、また他人を思いやるように進化してきたがゆえに、行動を選択するにあたって他人の幸せを考慮」し、その結果自分の欲求に「周囲の人々の欲求を」を含め、「自分とつながりのある他人の欲するものを欲する」。

また、人の脳の大きさから、人は150人程度の人と「つながる」ことができる。この150をダンバー数という。ここでいう「つながる」というのは、「相手のことをよく知っている」関係のこと。150人とつながりを維持するためには、「毛づくろい」では自分の時間の42%必要となるので、人は「言葉」を発明した。「言葉」なら、「毛づくろい」と違って、1対1である必要はなく、一対多でOKだし、効率がいい。ダンバーの試算では「毛づくろい」より言葉は2.8倍効率的で、レストランの予約の人数を調べてみても、グループの人数の平均値は3.8だった。

人はなぜ投票するのか。自分の一票で選挙の結果が変わるわけでもないのに。筆者たちは「3次のルール」という自分の行動が友人の友人の友人にまで影響することを発見。すると、ひとり10人の友人がいれば、投票行動は、10人の10人の10人先の計1000人に影響し、ひとり1000票の価値を持つことになる。すると、選挙結果に影響がないとは言えず、投票行動は「合理的」となる。その他、「肥満は伝染するのか?別にいっしょにマックにいくわけでもないのに」などなど、取り上げるテーマも興味を引くものばかり。

おすすめです。

2011年2月8日火曜日

学会誌から

昨日、物理学会誌が届いたのを自炊するために分解しながら、パラパラと眺めていたら、金子先生の記事を見つけました。それは、1979年の東大物理の卒業文集に寄稿された久保亮吾先生の「基礎と応用」という文章の再録に関するもの。

内容は、日本に10年近く滞在したフランスの研究者D氏と久保先生の会話から始まり、D氏が「日本は応用科学には力をいれるが、基礎科学への努力は甚だ乏しい」という日本科学への短評から始まります。「フランスでは技術者でさえ、最も基礎的なことをやりたがる」「誰でも、できるならカルノーの原理のようなことをやりたいのだ」と。

それに対し、すこし「意外」という感想と日仏の比較のあと「基礎科学と応用科学の意味とその関係」についての話になります。久保先生の文章では極論として、真理とは役に立つもの(By 高橋秀俊先生)で、「役に立たないものは真理ではない。」「真理を求めるのが科学なら、応用とか基礎の区別は意味がない」となる。「その上に何かあるものを構築され得るだけの基礎を探求する、というものだけを基礎研究と呼ぶとすれば、それは実用を目的としない研究というのとはちがった意味である。」また、「大事なことは、役に立つ基礎を一つ新しく築くことである。」と。

最後に、話の落ちがお説教になって申し訳ないとしながら、「物理学科を卒業する諸君の仕事は本当の基礎を営々と築く活動であると思う。何も物理の分野に限ったことではない。物理の精神は本来、そういう基礎の学問であり、最も応用がきくものである。それが教育できたとは私も思っていない。むしろ、物理をやろうと思ったその気持ちの中にそれがあったはずである。」(1979.2.26)

北里物理の学科長は十河先生。久保先生の最後の弟子として何を語るのでしょう。

あと、学会誌に最後の会員の声で、吉岡先生が「グラフェンでは困りませんか?」という記事を書かれていました。grapheneは「グラフィーン」という表記のほうが発音に近い。グラフェンだと、日本人はグラにアクセントを置きがちで、外人には「グラヘン」と聞こえてしまう。今変えとかないと、Reynolds(レイノルズ─>レナルズ、レノルズ)数、acoustic(アコースティック─>アクースティック)やlaundry(ランドリー─>ラーンドリー、ローンドリー)みたいな、ローマ字読みのカタカナをそのまま発音することになってしまうと。今年、修士論文の副査を担当するのですが、そのタイトルは「グラフェンの物性の理論的研究」。修正させたほうがいいのでしょうか。ちなみに、主査は十河先生。