2010年5月28日金曜日

理性の限界



「私は嘘つきだ」という自己言及のパラドックス。この発言は「真」なのか「偽」なのか?この発言が「真」なら、発言者は嘘つきになり、発言が「真」であることはない。「偽」なら、「嘘つきではない」ことになり、正直者なので発言は「真」となって矛盾する。では、この発言をどう扱うのか?私は、「嘘つきといってもいつも嘘をつくことはないので、この発言は真であっても矛盾はない」という常識で対処すればパラドックスではない、と考えますが、論理学者は違うようです。「決定不可能命題」と呼んで、真剣にその矛盾の由来を考えている。

「抜き打ちテスト」のパラドックス。教授が「1.明日か明後日に試験する。2.学生は事前に試験がいつ行われるか予測できない。」と掲示し、学生がどう対処するかという問題。「明日試験がなかったなら」、1から明後日しか試験はできないけれど、すると2の予測不可能性に反する。よって「明後日は不可能で、明日しか試験はできない」と予測できることになるが、これも2に反する。結論は、1、2を満たすことは不可能となり、パラドックスである。

これも、常識的に考えると、明日試験がなかった時点で明後日試験が行われることは確定するが、それは明日になるまで分からないので、2には反しない。明後日に試験が可能なので、明日試験をやるかどうかも今日の時点で予測はできないので、1、2に何ら問題はない、となると思うのですが、論理学者はやはり真剣に考える。

この本は、第3部でこうしたパラドックスから「ゲーデルの不完全性定理」を紹介し、2番目のパラドックスが「真」か「偽」か決定できない「ゲーデル命題」だということを解説しています。通常の論理の世界は完全で「証明と真理」は同一である。一方、自然数まで含む世界では「不完全性」が成立する。真の命題でも証明不可能なものもある。有名な整数論の未解決問題、例えば「4以上の偶数は、素数の和である」が証明できないのも、数学者の努力が足りないからではなく、真か偽か決定できない「ゲーデル命題」だからかもしれないわけです。

抜き打ちテストのパラドックスは相互言及のパラドックスであり、「君は私が嘘つきだと信じる」という命題と同じ構造である。この命題は「私は嘘つきだ」という自己言及のパラドックスの命題とは「君と私」+「信じる」の2点で異なります。「君」がこの命題を信じると偽になり、信じないと真になる。この相互言及のパラドックスもゲーデル命題であり、人間の論理的な思考にはこうした不完全性が必ず入りこんでしまう。さらに、神様がこの世にいるとしても、それが全知全能ですべての命題の真偽を知ることは、ゲーデルの不完全性定理に反するので、神の存在は人間の論理を超越した存在でなければならない。

第一部、第二部は私的にはイマイチでしたが、討論形式で分かりやすいです。第3部は分からない部分もあるのですが、神様の存在まで議論する展開が面白い。ゲーデルの不完全性定理も勉強してみたくなりました。オススメです。

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